表材概論。
日常に‘オモシロキ’を創成するのであれば、

材を磨く、もしくは育てなければならない。


突出した‘想’とは偏見とは大きく異なり、

遠近の‘個’を無視して育まれるものでなく、

己の目や足を使い、随所で見取れる問題に対して

半信半疑ながらも確固たる‘案’を備えることである。


‘想’の確証に向けて、具現化する行為が

‘表現’であり、単に目的を達すためだけのものではない。


その過程おいて時には‘想’を大きく覆すこともあり、

人に触れ、地に触れ、時に触れ、

いよいよ確立に近づいていくものである。







目的を達すという点からみれば、

その‘想’を「イカれる」「クルう」の類まで

高めることをせねばならず、

他者が‘異’を唱えようとも、

己の信を示して進んでゆかねばならない。



そのようにして初めて

真の‘楽’や‘笑’に出逢えるのであり、

‘想’と‘表現’は共に歩ませていくべきである。



‘想’を達すということは、

実利を求めることと大きく異なるが、

複数の仲間と共に歩んでゆく場合、

前者を求めると道なき道を進むことになる。


険しい選択となるが

つまるところどれだけの材を集めたか、

育てたかに帰するからである。


ただし、卓越した‘想’はその後に‘実利’を

伴うものと狂信することで全くもって不可能であるとは思わない。


然れども‘想’を基盤とし、気を充実させ、

具現化に取り組んでゆくには

やはり少数精鋭というのが現在のところ現実的である。



付け加えとして、実利を伴うか、

つまり世の中に受け入れられるかは

‘機’を伺うことが必要になる。


時にその環境も重要であるが、

特に機を間違えば、何の効果も得られず、

身を没するのみである。


幸いごく一部の世界では目立った動きが増え、

既存に立ち向かおうという姿がある。


どこを‘機’と捉えるかは各人次第だが、

結局は各々が何を求めるかが絶対であり、

それ以上の付加は得られず、

与えられないものである。



無論、多きを求める必要はないが、

当然、他者に進言するべきではない。



「わからない」は無知に同意であり、

具現化の行程において、‘案’を模索することは

必然である。




実際はその過程で出逢ったものこそ、

‘楽’や‘笑’であり、

気付けば積み重ねてきたものこそ「幸」である。
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by chubblog | 2009-07-31 19:31
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